長岡京廃都

本日は2月4日で立春ですが、季節が移り変わる時期が昔とは異なる現在では2月はまだ肌寒い晩冬という感じがします。3月に入れば春の気配が漂ってくると思いますが。 ブログは休止中だったのですが、歴史に関する記事をちょっと書いてみようかなと思い更新しました。 私は京都出身ではありませんが、数十年前に京都の長岡京の史跡を訪れた際に長岡京の歴史や遺跡発掘の経緯に興味を持ち当時の歴史を色々と調べていた時期がありました。今も途切れ途切れに勉強してはいるのですが。長岡京を題材にした脚本を書いてコンクールに応募した事もありました。長岡京桓武天皇が784年に奈良(大和国)の平城京から現在の京都(山城国)に初めて移した首都で、現在の向日市及び長岡京市の地に築かれました。が、種々の政治的・地政学的要因や地形や河川による自然災害等によって10年ほどで廃都が決定し、長岡京から程近い葛野の地に再遷都が行われました。桓武天皇はその新都を平安京と名付けました。それが現在の京都です。長岡京が廃された理由については政治的・心情的・地理的といった多様な視点から多くの説が唱えられており、歴史学の専門家の意見を集約すると「地形的に高低差が大きく築都に向いておらず、洪水等の被害が甚大であった為」「長岡京において桓武天皇の同母弟の早良親王が謀叛の罪を問われた末に急死し、それによる祟りを怖れた桓武天皇が心機一転を図って新しい都を造ろうとした為」という2点の理由に絞られるようです。(桓武天皇の当時の側近の藤原種継が暗殺され、その首謀者として天皇の同母弟の早良親王が捕らえられ天皇に対する謀叛の疑いをかけられました。早良親王は無実を訴えて断食し流刑地に護送される途中で死去) 

当時の様子を伝える史料や伝聞・伝承が乏しい為、長岡京廃都の理由・経緯については上記の2つの定説以外にも様々な角度から多くの仮説や推論を展開出来る余地があり、そこに魅力を感じる歴史ファンも多いようです。

長岡京は10年という短い期間の都だった為にその正確な位置が分からず遺跡・出土品といった物証も殆ど無かったのですが、1950年代に地元の歴史研究家である中山修一氏の発掘調査によって初めて当時の遺構や遺跡が確認され、実在する都であった事が立証されました。向日市の辺りに都があったらしいという事は古代から伝わっており歴史書にも記載されています。しかし歴史学の体系的な研究・検証といった活動は近代に入ってから本格化したものなので、長岡京は近代以前は「幻の都」と呼ばれ、その実在が確認される事も無く半ば忘れ去られようとしていました。長岡京市には中山氏の記念会館があり、長岡京の遺跡発掘と長年にわたる調査研究の功績を伝える展示品 を見学する事が出来ます。中山氏の業績が無ければ長岡京の遺跡も土中に埋没したまま忘れ去られ、世間が長岡京の存在を認知する事も無かったでしょう。遺跡発掘調査は場所によっては実施する事が困難である場合が多いのですが、長岡京の遺跡も向日市長岡京市の繁華街の中にあったので遺跡発掘調査は土地の所有者や不動産開発業者との交渉・調整が大変で難航した様ですし、遺跡調査域と私鉄の線路が重なる部分等もあり、その点でも様々な困難が生じていた様です。向日市の文化資料館には長岡京の遺跡発掘の調査記録や出土品のレプリカ、朝堂院や大極殿の復元模型、当時の人々の衣食住を再現した品々が展示されています。庶民の質素な低カロリー過ぎる食膳や現代の一般庶民の献立に近い感じの役人の食膳、貴族の豪華すぎる食膳なども食品サンプルで再現展示されています。ただ、資料館はいつ行ってもほぼ無人で貸し切り状態であり、関心を持つ人が少ない事が窺える点が少し残念でした。立派な造りの資料館で展示物も中々見応えがあるのに・・歴史好きの方には是非一度立ち寄って頂きたいと思いますね。また、向日市長岡京市京都市長岡京平安京の違いについても調べてみると色々と興味深い点があると思うので、是非その辺りにも注目して頂けたらと思います。