赤松氏の興亡

私の父方の先祖は地方の農民で、代々農地を耕し受け継いで来た・・と子供の頃は思っていました。いわゆる武家や商家の類とは無縁の、普通の農家だと認識していましたし、実際、先祖についての詳しい話を祖父母や親戚から聞いたことも殆どありませんでした。代々農民だったのだから特に子孫に伝えるような家系図や逸話も無いし、それが当然だと思っていました。ただ、祖母が武家の末裔の家の出身だという事は聞いていましたが。後年になってから、先祖は武家の末裔で昔はどこかの武将に仕えていたらしいという話を親戚から聞いて、ちょっと興味を持ったので調べてみました。すると、どうやら播磨(兵庫県)を拠点としていた守護大名の赤松氏の一族に仕えていたのではないかという結論に至ったのですが、しかし聞き取り調査や状況証拠(?)からそう推測できるだけで、裏付けとなるような文書や武具といった物証等はありません。ただ、赤松氏の一族とされる家々と多少の繋がりがあったことは確かなようで、昭和の初め頃までは縁談や就職の際に世話になったり、あるいは何かの折に手伝いに行ったりという程度の行き来はあったようです。赤松氏の分家や同族とされる氏族は数多くあり、小寺氏、別所氏、上月氏、得平氏、有馬氏、石野氏などが特に有名です。その他多数の中に私と同じ名字もあり、もしかしてその家に仕えていて名字を貰ったのか、あるいはその家の分家筋又は庶流に当たるんだろうか・・などという妄想をしたりしています。(^_^;)赤松氏はもともとは播磨の宇野家から分家して赤松姓を名乗るようになったと云われており、私の家も宇野家の分家筋と関わりのある名字ですので、厳密には赤松氏の分家ではなく宇野氏を共通の祖とする同族の家の縁戚(?)ということになります。播磨の宇野氏は村上源氏(村上天皇の後胤)を名乗っていますが、それを裏付けるような物証は殆ど無いようで、伝えられている家系図についても父子関係と生年が矛盾するような点もあり、歴史家の多くは信憑性に欠けると結論付けているようです。かといって完全に否定できるだけの証拠もないので、村上源氏説の真偽は定かではありません。さて、同じ一族内での縁談や相互仕官が多いのは当然ですから、一族内に繁栄した家があれば一族郎党が集結してその家を支え、同時に出世の足掛かりとします。宇野氏の分家の一つに過ぎなかったものの、戦功と政治的手腕で大名となった赤松氏が一族の中心となったのは当然の流れといえます。赤松家の歴代当主の中では赤松円心が特に有名です。足利尊氏に臣従して勝利に貢献した武将として、ちょっとだけ歴史の表舞台に顔を出すようになり、後の室町時代には三管四職と称された有力大名の一つに数えられるまでになりますが・・。他方、赤松一族は気質が激しく下克上を是とする傾向があり、その為内紛や他大名との確執が絶えず、やがてそれが深刻な事態を招くことになります。歴史に詳しい方ならご存知だと思いますが、赤松氏は歴史の節目節目で暴挙による政変を起こしており、それが結果的に日本の歴史の流れを変えることに繋がって行きます。戦は強いが一族同士の争いが絶えず・・その為何度も存亡の危機に晒されては、かろうじて再興するという歴史を繰り返し、最終的には関ヶ原の戦いで西軍に味方した事が致命傷となり、武士の身分も手放して帰農します。私の家も主家に従い西軍に属して敗者となり帰農した様ですが、おそらく主家より遥かに早く帰農したと思われます。
大名としての赤松本家は消滅したものの、分家や庶流の中には後世まで武家として存続している家も多くあります。分家の石野氏は徳川幕府下で旗本となり、後に赤松の名に復し、同じく分家の有馬氏は大名となり、明治維新後には華族となっています。赤松氏の歴史については、また改めて書きたいと思います。
赤松氏を題材にした小説は少なく、ドラマや映画なども皆無ですが、確か大河ドラマ軍師官兵衛」に脇役で出ていましたね。主人公の黒田官兵衛も赤松氏の出身だという説があるのですが根拠となる資料に乏しく、近江(滋賀県)の佐々木氏の分家筋と云う通説の方が有力なようです。官兵衛の最初の主君の小寺政職は赤松氏の同族の出身で、片岡鶴太郎さんが演じていました。小物で統治能力に欠けるという人物設定でしたね・・。そして本家の赤松一族もちょっとだけ出演してましたね。官兵衛の幼なじみの女性の結婚式を襲撃して皆殺しにして官兵衛に恨まれてましたね・・(^_^;)まあ、そういうイメージで解説する歴史学者の方が多いのですが・・。
個人的には、既存の身分制度に反逆する実力主義の家風、という捉え方をしたいなと思っています。